池田遊子 池田遊子(1909~2006)は、広島県深安郡手城村(現福山市)に生まれた。
 1927年に上京し、宮彫師(佐藤藤太郎一重)に入門。以後独学で直彫り立体彫刻を研究し、卓抜した彫技を見せる伝統的な木彫作品を制作した。
 戦後は大阪市立美術館の天井裏を工房として、前衛的な抽象彫刻を手掛けた。自然の姿の模倣に終始するアカデミズムに対して、自然の法則の上にたって思想感情を表現する立場を強調し、関西におけるアバンギャルド美術の先駆をなした。後に「ミュージアムの怪人」と評される。
 1951年には「ピカソ展」の向こうを張る形で、大阪市立美術館にて「池田遊子個人展」を開催。「ピカソが藝術家なら俺も藝術家だ」と大気焔をあげたことは語り草となっている。
 1965年に枚方の地に(財)天門美術館を創設。ここが後進育成と自身の研究活動の拠点となり、自作の造形作品を展示一般公開する。
  終生旺盛なる創作活動を展開し、具象抽象に拘泥しない自由闊達な作品を次々制作し、純然たる造形美術家として生計を成した。
 殊に1987年に枚方市から委嘱され制作した高さ17mのモニュメント「恒久平和像」(王仁公園)は、平和都市枚方の為の公共野外彫刻として建立された。
 生涯にわたってどの美術団体にも属さず、世俗的栄誉にも無縁であった為、知る人ぞ知る隠逸の彫刻家であった。まさに在野にて独歩自尊を貫き、藝において自在に遊ぶという生き様が、没後心ある美術関係者によって注目されつつある。

 略 歴

明治42年9月3日 広島県深安郡手城村に生まれる。本名保夫。
   
昭和2年 上京して宮彫師佐藤藤太郎一重の徒弟として後藤派堂宮彫刻を修める。昭和6年来阪し各寺院の意匠彫刻を手掛け、自ら「方正」と号す。
   
昭和9年 「鵬旭」と号を改め、独学で直彫り立体彫刻を研究。各種展覧会に出品し複数回受賞。
   
昭和14年 「聖戦美術展」では木彫『黙禱』を出品し、政府買い上げとなる。
   
昭和22年 大阪市立美術館3階(天上裏)に研究工房を設け、号も「遊子」と改め、新時代を先見して関西彫刻家協会(委員長)、日本生活美術連盟(委員長)大阪府デザイン講座(講師)、大阪府文芸懇話会(会員)等を歴任。その間に前衛的な抽象彫刻を制作。
   
昭和26年 ピカソ展の向こうを張る形で大阪市立美術館にて大規模な個人展を開催して耳目を集める。
   
昭和33年 大阪府知事赤間文三氏の肝煎りで財団法人設立の認可を受け、理事長に就任。昭和40年枚方市山之上北町に美術館を建設開館する。
   

池田遊子 以後天門美術館を本拠に旺盛な藝術活動を展開し、抽象具象の別を問わず多彩な造形表現を試みるが、一貫して「人間謳歌」というテーマを追求した。
 孤高独歩な生き方で世俗的栄誉とは無縁だったが、その雅号の通り自由な境涯に遊んだ彫刻界の異才であった。
 代表作に『光明』『無為』『地獄の鬼』などがある。昭和62年制作のモニュメント『恒久平和像』(枚方市王仁公園内)も有名である。

平成18年4月9日歿。享年97歳
平成19年「池田遊子展~一周忌回顧展」開催。   於:(財)天門美術館 ※図録有
平成21年「池田遊子生誕百年記念展」開催。   <主催:枚方市・(財)枚方市文化国際財団>
                                      於:くずはアートギャラリー
平成24年七回忌記念「The遊子展~墨戯の世界~」開催。於:(財)天門美術館 ※図録有